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LIBERALISM [daily diary]

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今日『日本が嫌いな日本人へ』(呉善花、1998年)という本を図書館で借りてきました。まだちゃんと読めていないのですが、前書きと目次とあとがきを読んで分かった筆者の主張をまとめると、1998年時点で不況にあった日本では、アメリカのような資本主義の延長にある西洋モデルではなく、「日本独自のモデル」を目指していくことが必要だということです。筆者は前書きで『西洋近代化の究極の姿を示すアメリカンスタンダードは、現実を主体と客体に分離し、その「主体の自由」を徹底させたリベラリズム』と表現しており、「個」ではなく「和」を大切にする日本人の特性からも、そうした究極のリベラリズムではない新たな「日本モデル」を目指すことが、日本や日本人の明るい未来につながる、という主張をしています。(すごく簡単にまとめたので、抽象的でごめんなさい!)

これを読んでいて、私はとても切なくなりました。本の発行から10年以上経った、今の日本を見てみてみましょう。筆者の願いとは裏腹に、小泉氏が進めたリベラリズムのおかげで貧富の差は広がるばかり。勝ち組や負け組という言葉がうまれ、一億中間層社会は超格差社会になりました。人生は宝くじとでも言わざるを得ないような、お金のある人とない人に与えられる機会の差は広がりました。まるきり、リベラリズムの道を突っ走ってしまいました。

読んでいてお分かりだと思いますが、私はこうした機会の平等が与えられない社会の構造に否定的です。小泉さんの改革に対する批判もよく口にしますが、なんと先日驚いたことには、仲の良い友人にこの話をしたところ、友人は小泉改革賛成派だったのです。

賛成の理由を聞くと、「何もしない政治家たちより、行動を起こした小泉さんがよっぽどマシ」という意見でした。改革への社会の影響という視点から見たら、「そんな理由は理由じゃない!」と言いたくなるような理由でしたが、日本では政治の話が白熱しすぎると友情も壊しかねないので、何も言えませんでした。(これについて、詳しくは書きませんが、日本人がディベートの技術を身につけていないことが原因だと思います。話し相手の意見と人格を混合してしまい、「あんなこと言ってるからあいつは嫌なやつだ。」と思ってしまうからです。)

世の中にはいろいろな人がいるので、いろいろな意見があるのは当たり前です。民主主義の下では、「個人」ではなく、「社会を構成する人々全員」が恩恵を享受するためにはどうしたらいいかを考えることが重要です。資本主義やリベラリズム、小泉改革がそれを実現すると信じた人や信じている人がいるのは、事実として受け止めたいと思います。ただ「社会を構成する人々全員が人生を楽しくまっとうできるか」という質問に対し、「将来に対する安心感」や「機会に対する平等なアクセス」を切り口に答えを出すとしたら、1998年以降の日本の社会はそれから到底かけ離れてしまったと言わざるを得ません。

「それでもいいじゃん」と思う人がいても、個人の自由なので仕方がありません。でも、そうした方たちに紹介したい言葉に、「Noblesse oblige」というものがあります。

高等教育を受ける機会に恵まれ、正社員として働く機会を得られたみなさんは、たとえ務める企業の規模の大小はあるとしても、自分は社会における「エリート層」にいるということを自覚してください。そしてそうした社会の上の層にいる人々が、さまざまな理由で(もちろん社会制度の在り方の犠牲者という理由でも)そうした層にたどり着くことができない人たちのことを考える感受性を持たなければいけません。そしてそこから、私たちがそうした人々に対して負っている責任を自覚し、行動していかなければいけません。これは、私たちの義務ではないでしょうか。私たちは、自分と、自分の周りの人たちだけの幸せを優先し、そのほかの社会の構成員を、見て見ぬふりをしていないでしょうか。

そうしたことを考えもしない、という人は、全体の2割くらいいると思いますが、そうした方々には、私も何も言えません。でも、そうした感受性を持ちながらも行動に移せていない人は、自分にできることが必ずあると信じて行動してほしいと思います。私も、行動したいと思います。

この気持ちはなんだろう [living in Japan 2010]

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昨日は最近大学で新しくできたお友達とFika(フィーカ:スウェーデン語でお茶すること)をし、とても楽しい時間を過ごしました:D 興味のある分野が同じ友人と話していると、いろいろな情報収集ができて勉強になります。最近は大学で新しいコースを受講し始めたこともあり、すてきな新しい友達が何人かできて嬉しいかぎりです。

すてきな出会いがある度に思い出す、ある詩のある一文があります。
谷川俊太郎さんの「春に」という詩の次の文です。
=========
まだ会ったことのないすべての人と
会ってみたい 話してみたい
=========

よい出会いがあると「この人と会えて本当によかったな」と心から思うとともに、こうした素敵な出会いがこの先たくさんあるのだと思うとワクワクして、「その人たちに早く会いたい!」という気持ちになります。 でもきっといろいろなタイミングや偶然が重なって、その「時」がきたらに出会えるんですよね。そのときに私も「相手」にとって「この人と出会えて本当によかったな」と思ってもらえるように、感受性を磨いて成長しておきたいなと思う日々です:)


「春に」 谷川俊太郎

この気もちはなんだろう
目に見えないエネルギーの流れが
大地からあしのうらを伝わって
ぼくの腹へ胸へそうしてのどへ
声にならないさけびとなってこみあげる
        
この気もちはなんだろう
枝の先のふくらんだ新芽が心をつつく
よろこびだ しかしかなしみでもある
いらだちだ しかもやすらぎがある
あこがれだ そしていかりがかくれている
心のダムにせきとめられ
よどみ渦まきせめぎあい
いまあふれようとする

この気もちはなんだろう
あの空の青に手をひたしたい
まだ会ったことのないすべての人と
会ってみたい 話してみたい
あしたとあさってが一度にくるといい

ぼくはもどかしい
地平線のかなたへと歩きつづけたい
そのくせこの草の上でじっとしていたい
大声でだれかを呼びたい
そのくせひとりで黙っていたい

この気もちはなんだろう

宗教のはなし (完結編) [living in Japan 2010]

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最近、とても感銘を受けた本に出会ったので紹介します!
こちら:土井 健司『キリスト教を問いなおす』ちくま新書、2003年

私は特に信仰している宗教はないのですが、スウェーデン人のボーイフレンドはキリスト教徒です。スウェーデンはもともと国教がルター派のキリスト教です。あまり意識していない人も多いようですが、私の彼とそのお母さんはなかなか熱心なキリスト教徒で、「神を信じている」そうです。

私も別にキリスト教が嫌いなわけではなかったし、むしろ信じるものがあることで心穏やかにいられそうな気がしたので、彼と付き合い始めてから本を読んで勉強したりしていました。 ・・・が、20年以上宗教とは無縁で生きてきた私にとって、キリスト教を理解するのはとっても困難な作業でした。そして勉強すればするほど、「なんだかうさんくさい・・」と思うようになってしまったのです。

私がキリスト教に対していだきはじめた疑問や意見はたとえば、

・天地創造説や、聖書の中のいろいろなお話が非科学的すぎて信じられない
 →そうした話を基盤としている神の存在を信じられない

・困った時は神に祈るより、現実的に問題を解決する方法を考えるべき

・神が全能なら世の中にある不公平が説明できない などなど。
(この文を読んでいやな思いをされた方がいたら、すみません・・・)

実はキリスト教を勉強しはじめたころ、つまりボーイフレンドと付き合ってしばらく経った頃に彼にもこうした質問をぶつけてみたことがありますが、彼は答えられませんでした。

私 「キリスト教を信じているってことは、天地創造説を信じてるの?」
彼 「うん、まぁね。」
私 「じゃあ、ダーウィンの進化論については、どう思ってるの?間違いなの?」
彼 「うーん、それは・・・。」

と黙ってしまった彼。悩んで悩んで、その日は一日中しんどそうでした。てっきり「キリスト教徒は、その宗教の背景について論理的な理解をもっている」と思っていた私は、このことがとてもショックでした。正直に言うと、「そこ(非科学的なこと)はうやむやにしてるんじゃん・・・。それでよく信じられるなぁ」と思ったのです。(ひどい言い方で本当にごめんなさい。)それっきりキリスト教に対する私の懐疑心はますます大きくなり、なんとなく彼との間でも宗教の話はタブーになってしまいました。

別に彼にキリスト教徒になることを勧められているわけでもないので「まぁいっか」と流せばよいものを、納得するまで前に進めない(つまり、しつこい・・)性格の私は悩みました。帰国後も教会に通ってみたり、キリスト教徒だという知人に話をしてみたりして、納得のできる説明を見つけようとしました。しかし、そうした場所で出会う人々は「すでにキリスト教を信じている人たち」なので、私と彼のように、根本的な考え方が既に違っていました。

教会では神父さんが話す「イエスの起こした奇跡」に真剣に耳を傾ける人々を見ながら、「この方たちがこの話を真剣に信じているのだとしたら、それはちょっとこわいことではないのか・・」と思ったり、彼にしたように、知人に天地創造説と進化論についての見解を聞くと「そんな話を持ち出すのはナンセンスだよ。」と怒られたりを繰り返すうちに、私の中で「宗教はただの洗脳なのでは・・・」「幼いころから洗脳されていない私には、理解不可能な領域なのでは・・・」というネガティブな結論に行き着きそうになっていました。

そんなときに出会ったのが、冒頭の本です。これまで疑問に思っていたことがどんどん解決し、やっと自分なりの解釈をおこなうことができました。これまで「キリスト教と科学との対立」について、どのキリスト教徒に聞いてもうまく説明してもらえなかったり怒られたりした理由は、きっと彼らも「論理的に説明できなかったから」だと思います。今回本を読んでいてわかったのは、「キリスト教」に関する知識というのは本当に抽象的で、たとえキリスト教徒であっても、一般の人には論理的な説明は困難なのかもしれないということです。そうした困難な部分をとてもわかりやすく説明しているのがこの本で、神は本当にいるのか、祈りとは何なのか、なぜキリスト教徒同士で戦争をするのか・・・など素朴ながら非キリスト教徒にとって根本的な問題を、わかりやすく解いています。

ちなみに今回のブログは前半と後半を2回に分けて書いていますが、前半は本を読み終える前に書きました。本を読み終わった後、前半の部分を読み返してみると、自分がキリスト教に対していだいていた疑問や意見が、どんなに的外れなものかがわかってぼう然としました。(これじゃあ彼も私からの質問攻めに困るはずですね・・・)それだけキリスト教徒と非キリスト教徒の間には「視点」のずれがあるということなんだと思います。

本の内容は簡略化して書くのが難しく、ここで説明できませんので、興味のある方にはぜひ読んでみてほしいと思います: ) また、キリスト教徒の方にも、自分の認識をメタ的に認識しなおすために読んでみることをぜひお勧めしたいです。

最近のはなし [living in Japan 2010]

パソコンが壊れました・・・=(

以前から調子が悪かったのですが、とうとう電源を入れても通常に起動しなくなりました。PCDEPOTに持って行って診断してもらうと、修理に3万かかるとのこと。さらにすでに切れていたウィルス対策やPC内部のホコリとりなどのオプションをつけると5万円くらい。修理の必要性をおしてくるDEPOTの店員さん。私はPCに詳しくないですが、賢い消費者(?)になるべく食い下がりました。

私 「ハードディスクの交換だけではダメなんですか?」
  「ウィルス対策は種類を選べないんですか?」
  「このほこり取りって具体的にどうするんですか?」

・・・店員さんもしつこくて迷惑だったと思います。結局アルバイト(公共施設)先のパソコンに詳しい同僚に相談し、「直せるかも」とのことだったのでお預けしました。それまでこれまた同僚に借りた代替機を使っています。(DEPOTで説明されたこと&値段を伝えると"それはいいお金取ってくるねー。"と言っていました。)それにしても、PC関係はあまり好きじゃなくて苦手でもあるのですが、そのようなことは言っていられない時代ですね。仕事でも勉強でも機器を制する人が効率を制します!なのでこれを機に、もうちょっと自分でいろいろマネジメントできるように勉強していきたいです。

さて、スウェーデンへの居住許可申請の件について。先月の終わりに、スウェーデン大使館に必要書類を送って申請をし、早速大使館から電話がかかってきましたが、「申請中はスウェーデンに入国できません」とのこと。

(知らなかった)私 「え!12月に行く予定でチケットも取っているんですが・・・」
大使館の方     「では入国していいかどうか直接現地の移民庁に問い合わせてみてください」

日本からスウェーデンの移民庁に連絡するのも大変なので現地の彼に電話してもらうようにお願い。結果・・・1月に旅行から帰るまで申請はできないということです=’( myndighetの決定には逆らえません・・・ので1月に改めて申請します・・・彼も残念がってましたが、「ちょっと伸びるだけだよ、前向きに!」と言っていました。そんな前向きな彼のおかげで、つきあってからの私は大分前向きになったと思います。Tack!

今回嬉しかったのは、対応してくれたスウェーデン大使館の方がすごく優しかったこと。公共施設でアルバイトしているのに、公共機関が苦手な私。大使館の人も「きっと冷たいんだろうな」と思ってしまっていました。(思い込みはいけません。)移民庁との話し合いの結果を受けて「申請できないみたいです・・・」と知らせると「そうですか・・・」と残念がってくれて、1月に申請するときは今回用意した用紙をすべてそのまま再送したらよいとのことでした。よかったー、意外と早く済みそうです。

最近は10月末と11月頭にあった2つの試験(日本語教育能力検定試験と、TISUS)のための勉強に没頭していましたが、無事終わり、今後の計画を立てて行動していきたいと思います。今日はバイトが終わったら長期計画の作成と、それをtodoリストに落とす作業をしようかな。忙しくても目標に向かって進んでいることがわかる仕組みと、時間がかかる技術の習得についてルーティーンに取り組めるような仕組みをつくりたいと思っています。

ところで、3年くらい使っているこのブログ。いたずらコメントもよくくるし、カテゴリーもぐちゃぐちゃしてきたし、そろそろ新しいものに変えたいのですが、PCも壊れているのでまた落ち着いてからすることにします・・・前向きに!

リサイクルと、心の余裕 [living in Japan 2010]

(今日はちょっと時間がないので、まとめずつらつら書きます。読みにくくてごめんなさい!)

私はあまりペットボトルのリサイクルをしていません・・・。私の住んでいる市では自分で使ったペットボトルは洗って、キャップを外して、乾かして、近くのスーパーの回収箱に持っていくことになっています。が、今のところ私は洗ってそのまま燃えるごみに捨てることが多いです。

リサイクルをしない一番の原因は「本当にこれってリサイクルされてるのかなー?」「リサイクルされた後どうなるんだろう?」と、リサイクルの意義にいまいち納得していないからです。また以前ニュースゼロという番組をたまたま見ていて、実はリサイクルされたペットボトルは売られて絨毯(じゅうたん)の原料になっている、リサイクル業者が利益を得ている、と言っているのを聞いて、ますますリサイクルへの懐疑心(?)が強まりました。

でも、私のこういう態度は、ものすごくいけないことだと思います。
「リサイクルしないこと」がいけないのではなく(いけないのかもしれませんが・・)、リサイクルしない理由が「その意義が分からないから」だと分かっていながら、納得するために自分で調べてしていないところが、いけません。
テレビからの情報で「そうか、リサイクルは業者の利益が絡んでるんだ!」と一方的に判断してしまっているところも、よくないと思います。こういう態度は思考の放棄です。

今はインターネットもあるし、信ぴょう性のある情報源を探すことに注意さえすれば、自分で答えを見つけ、納得し、行動に移すことが、やろうと思えば簡単にできる環境です。でも私を含めた多くの人があまりにもそうした「自分で答えを探す」プロセスを端折って、テレビからの情報や自分の思いこみなどで行動を選択してしまっています。

その原因はいろいろあると思います(例えば、学校で子どもたちがそうした「自分で調べる」練習をしていないこととか)が、その一つとして、人々があまりにも「自分の生活のことで手いっぱい」で、「思考」するための時間やお金や心の余裕がないからではないかと私は思っています。

私はスウェーデンに留学していたのでスウェーデンのことを取り上げますが、日本とスウェーデンの社会間にある大きな違いは「人々が自分の将来に対してもっている安心感」だと思っています。データなどをきちんと調べたわけではありませんが、スウェーデン人の、「将来に不安がない」ことからもつことができる安心感は、例えば若者の将来観や生活スタイルにも表れていますし、人々の時間やお金の使い方からも感じることができました。

日本をみてみると、みんな自分のことで精一杯だなという気がします。お金がある人は自分のお金を守ろうと精一杯ですし、お金のない人はお金のある人の暮らしに近づこうと精一杯ですし、生きることに精一杯な人たちもたくさんいます。その上みんなが将来に対する不安感を持っているため、「将来お金がないなんてことがないように」と、その準備で忙しくしているような印象を受けます。

みんな自分のことを優先して、というよりは将来への不安から自分や自分の家族を優先せざるを得ないような環境の中で、立ち止まって他人のことを考えたり、社会のゆくえについて考えたり、(私の場合だったらペットボトルのゆくえについて調べたり、)そういう余裕がないような気がしています。

私はここ2年ほど市のNPO中間支援組織でアルバイトをしていますが、「市民の人がなかなか自分たちの活動に興味をもって参加してくれない」という悩みを抱えているNPOがたくさんあります。その原因も私は、「自分のことで精一杯なのに、他人のためのボランティアの時間なんてもてない」と感じている人が多いからではないかと思っています。

スウェーデンに留学していた時、現代社会の授業で先生が「選挙で政党を選ぶときや、社会の在り方について考えるとき、大切なのは“個人”にとってではなく、“社会”にとって何がよいのかを考えることです。」と言っていました。スウェーデンでは高福祉の裏側でモラルハザードがおき、当たり前のように補助金に頼って生きている人たちもたくさんいます。そうした人たち(個人)にとって、高福祉社会はよいものにみえますが、公的な補助金を出し続けることは 社会全体にとって良くないという側面もみえてきます。

特定の個人たちに優しく、その他多くの個人たちが不安を感じながら生きている日本では、それぞれが「周りの人や、社会のことを考える余裕がない」社会になってしまっています。余裕がない→考えない→(社会に働きかけるための)行動に移せない→人々に余裕がない社会が存続する→人々に余裕がない・・・という循環を断ち切るために自分にできることなにか、考えるこの頃です。


異業種間の交流と、バームクーヘン [living in Japan 2010]

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以前から「この方と話していると本当に勉強になるなぁ」と思えるような方に出会うたび、そうした方々がみんな「異業種の人と関わる大切さ」についてお話されるなと感じていました。そういうお話を聞く度「大切なのはなんとなく分かるけれど実感としてはよくわからない・・・」というのが正直な感想だったのですが、最近「おー、これがそういうことかー!」と感じる経験をしました。

私の大学での専攻は「開発・環境専攻」という名前で、文字通り国内や国外の開発問題や環境問題について広ーく浅く勉強しています。また外国語学部なので4年間かかけて1つの言語を集中的に学びますが、そこではスウェーデン語を専攻しています。そんな中で3年間(+1年のスウェーデン留学)の大学生活では開発問題や環境問題やスウェーデン語やスウェーデン社会について学んでいたのですが、留学中に日本語教育に興味がわき、今年から同じ大学の「日本語専攻」の授業にもお邪魔して、日本語教育についても学び始めました。

他専攻の授業を受講している学生はあまりいないので、日本語専攻の授業では私一人もぐりのような状態・・・つまり浮いてます。 そんな中で気がついたのは、他専攻の学生さん、つまり私自身の専門と異なる分野に興味を持ち学んでいる学生さんは、私や普段私が接している人たちとは、全然違う視点を持っているということです。もちろん共通の知識や認識が同じなので、共通の理解はあるのですが、ものごとをみる視点、それを分析するために取り出してくるもの(理論や、理論を提唱した人物)などが異なり、まさに「そんな見方もあるんだー!」の連続です。ちなみに笑いのツボも違いました。彼ら/彼女たちも私と話していてそう感じるようで、「あぁこれが皆さんがおっしゃっていた“異業種間の交流”というものなんだ」と思い、物事を新しい視点から見る感覚に目からうろこが落ちる思いでした。

グローバル化で世界のシステムが複雑関わりあっている中、物ごとを一元的に見ることはできなくなってきています。「自分が見ている問題」が複雑なシステムの中でどのような位置にあり、どのように他の事象と関わり合っているのかを知るためにも、いろいろな方向から物事をみる力を身につけることが、必要だと思います。異業種の方と関わる大切さは、そこにあるのかもしれません。

ちなみに交流のあるNPO法人代表の方が、こうした異業種間の交流について「バームクーヘン」を用いて例えていらっしゃいました。「バームクーヘンの1つ1つの層」=「異業種間の層」で、「そのバームクーヘンに串をズバッとさすように、異業種間の交流を活性化ささえる役割を担いたい」というお話でした。

私も自分のいる層に留まらず、自分でぐいぐい他の層にも顔を出す行動力と好奇心を持って進んでいきたいなーと思います。

Mr.&Mrs. Heier [living in Japan 2010]

Idag var den dagen som jag hade längtat efter jättelänge!!!!! Min vän Chie och hennes man Johan kom till Japan!!! =D

Chie och Johan bor i Borlänge och min gamla skola finns också där. Vi träffades när jag hade ett föredrag om Japan på skolan. Det var ett öppet föredrag och de kom också dit. Vi umgicks mycket tillsammans medan jag bodde i Sverige. När jag åkte tillbaka till Japan visste jag redan att de skulle komma till Japan i sommar så jag hade väntat på den här dagen i 4 månader!!

Jag jobbade på förmiddagen och åkte till flygplatsen direkt efter jobbet.
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Det tog mer än en och halv timme med tåg från min hemstad till flygplatsen...!


Vid 17 kom jag äntligen framme=D
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Men, deras flyg hade blivit försenat...
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(De åkte från Istanbul)

Då får man fika på Starbucks och vänta=)
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Jag hade gjort en skylt, förresten.
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Här kommer de!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
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Johan och Jag. "Ni ser ut som ett par!" sade hans fru, hahaha

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Chie och Jag. Jag fick en födelsedagspresent..:') Jag blev så glad att jag fick tårarna i ögonen...

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De skulle åka vidare till Okinawa, en ö som ligger i södra Japan. Och den är faktiskt min hemstad, jag växte upp och bodde där tills jag började på universitetet i Osaka=D

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Chie köper te.

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Chie ringer hem till sina föräldrar i Sendai, hennes hemstad i norra Japan.

Nu måste de åka:'(
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Hoppas att de har det så bra på Okinawa!

Det var synd att vi inte hade så mycket tid att prata med varandra... men jag hade varit glad inte bara idag, utan i flera dagar med tanken att de skulle komma till Japan =) Tack Chie och Jahan, mina vänner!

2010-07-22 [living in Japan 2010]

Idag har jag varit mycket duktig och hunnit med att göra maaaassa saker! Hela förmiddagen passade jag på att städa lägenheten och hänga tvätten. Egentligen hade jag planerat att gå till universitetet och plugga där, men när jag hade börjat städa köket blev jag inte nöjd med att bara städa det utan blev sugen på att städa hela lägenheten...
Jag gillar att städa och vill ha lägenheten alltid ren och fin, däremot min rumskompis bryr sig inte om sådant. Stackars henne, som har en rumskompis som jag, som är så ordningsam:P

Sen vid lunchtiden cyklade jag till universitetet för att fika med min kompis. I matsalen träffade jag Kana, en av mina klasskamrater i svenska kursen. Just nu har hon ett besök från Sverige.

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(Kana, Emma och jag. Emma blundar...)

Det bästa med att gå på universitetet är att man alltid kan hitta någon som man kan fika med, hahaha =D

Sen kom min kompis, Mamiko!
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(Mamiko, Emma och jag.

Jag träffade Mamiko genom vår gemensamma vän efter jag kom tillbaka från Sverige i mars. Vi har inte känt varandra sä länge men är redan bästa vänner! Vi har så mycket gemensamt och hon ger mig alltid de bästa råd. Vi bestämde oss att ha en fest med ett par andra vänner nästa vecka hemma hos mig=D Det ska bli grymt!


När jag hade dagens två lektioner (Sustainable Development och japanska grammatik ) åkte jag till stan för att äta middag med min gamla vän, Naoko och några andra vänner.

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Naoko läste också svenska på universitetet och tog examen i mars.Nu har hon också ett besök, hennes svenska pojkvän, Johan. Johans bror och hans fru är också här nu:)
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(Johans bror och hans fru)

Naoko ska åka tillbaka till Sverige i sommar (eller lite senare). Jag önskar att hon kommer att ha det så bra i Sverige... med Johan!=D

Förresten, igår anmälde jag mig till ett prov “The Japanese Language Teaching Competency Test”! Om jag klarar med provet i slutet på oktober då får jag en kvalifikation som man behöver ha om man vill bli lärare i japanska. (alltså, i Japan. I andra länder kan det vara annorlunda.) Nu får man kämpa!


きっかけとなる接客 [living in Japan 2010]

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今朝、コンビニのアルバイトでお客さんに「お姉ちゃんべっぴんさんやな!」と言われて気分がいいアリハマです。

おじさんやたらハイテンションでしたけどね!タバコと一緒に買っていったライター忘れていったしね!「お客さま~!」と言って追いかけました。

昔から人を観察するのがクセで、全然知らない他人にも感情移入してしまうことが多いのですが、こういう性格だとお店のレジ打ちというのは、いろいろ考えてしまう仕事です。しんどいか楽しいかは、3:7くらいです。

たとえばお客さんの中には、丁寧な人や機嫌のいい人、元気のいい人もいますが、不丁寧な人や機嫌の悪い人、元気のない人もいます。
前者はたとえば「いらっしゃいませ、おはようございます」と挨拶したら「おはよう~」と返してくれたり、
おつりを渡したら「ありがとう」と言ったり、にこっとしてくれたりします。
そういうお客さんに会うと私もやたら嬉しくなったりします。きっとどんな店員さんでも、そんなお客さんに会ったら嬉しくなるのでしょうが、人との交流で感情がよく上下する私は、普通の店員さんよりも倍以上嬉しくなっていると思います。「この仕事しててよかったな~」と思えるくらい。

ちなみに後者は、商品やお金をポーンと投げ出したり、「これ温めてっ」となぜかちょっとキレ気味で言ってきたり、お釣りをつかみ取るように奪ってしってしまうお客さんです。こんなとき私は「なによ!プンプン」と怒るのではなく、「どうしてやさしく接することができないのかしら、あの人・・・」と悲しくなってしまうのです。
べつにお客さんの勝手だし、私も「まわりの人にやさしく接することがよいこと」という自分の視点で物事を見ている点はいけないんですけどね!

そうした中でも私は信念というか、ちょっとこだわっていることがあって、それは「あの店員さん、いい感じだったな。なんだか元気になったな。よし今日も頑張ろう!」と思ってもらえるかもしれないなら、どんなお客さんにもそう思ってもらえるような態度で接しよう、というものです。

私みたいな他人の態度にいちいち嬉しくなったり悲しくなったりする人は少ないかもしれませんが、まったくそんなことを感じない層はきっと全体の2割くらいで、私みたいな感傷的な人もきっと2割くらい、あとは真中あたりで山になって存在していると思います。(なんかそんな法則があったけど、名前忘れました・・・)

たとえ何も感じない2割の人には響かなくても、その他大勢の人の心には響くものがあるかもしれません。
さらに私みたいな反対側の2割の人だったら、先述したように「こんな店員さんにあった今日は一日ハッピーだったなぁ」と寝る前に思い出されるまでになるのです。そんなふうにその人が一日を楽しく過ごすきっかけをつくることができると思うと、こちらまで嬉しくなります。

ちなみに、うちの近くにあるキリン堂(ドラッグストア)でまさにそんな風に感じのいい店員さんがいて、私は行くたびに元気をもらっています。今日もコンビニのレジに立ちながら、「あのキリン堂の店員さんはどうしてあんなによい感じなんだろう・・・」と考えていたんですが、私が思うに、おそらく「落ち着いた声」と「相手の目(顔)を見て対応している」からかなと思います。

特に後者の方は、思い返してみるとレジでしっかりこちらを見てくれる店員さんて、少ないと思うのです。みんなお客さんとのコミュニケーションをどこか拒んでいるのかしら・・・。教育されていて「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」というときお辞儀をしてくれる店員さんは多いですが、キリン堂のお姉さん(と私は呼んでいる)は、そのときもこちらをみて挨拶してくれます。私は人の行動と心理に関する専門的なことは全然わかりませんが、相手をきちんと見ることで相手になにか安心感のようなものが与えられるのではないかなと思います。
(詳しい方いたら教えてください~)

というわけで、今日はそれをひらめいた6時半頃からお客さんの顔をみて挨拶&お釣りをわたすようにしたところ、なんだか私の方もストレスが少なかったし、「ありがとう」と言ったりにこっとしてくれたりするお客さんもいつもより多かった気がします。いいことに気がついたな~
とくに私は早朝勤務なので、お客さんのほうも早起きでしんどいのかもしれないです。そんなお客さんに元気をあたえられる(きっかけをつくることのできる)店員に、私はなりたい(宮沢賢治風)。

もうひとつ、コンビニで働きながら培った教訓。それは「相手をカテゴリーにあてはめてしまわないこと」です。
たとえばお客さんのなかで、工事現場で働いているひとは先述した「あまり響かない2割」が多いです。また、不丁寧&機嫌悪めな人も多いです。また、その中でも若い男性はその傾向が強いです。

多いことは多いことで事実なので、そのまま認識してもいいと思うのですが、ダメなのは「工事現場系の人はこうだ」とカテゴリー化してしまうことです。カテゴリー化してしまうと、初めて会った人やよく知らない人でも「工事現場+若い男性」という見た目で無意識に勝手に相手を判断してしまう、という事態が起きてしまいます。これは私の信念にものすごく反します。たしかに周りの環境や、生きている年代による共通の雰囲気みたいなものは存在するかもしれませんが、個人は個人として向き合うべきだと思っています。文化人類学に似た考えがあるかもしれません。

最近私は「大○のおばちゃん」に対してこうしたカテゴリー化をしてしまっている部分があるので、気をつけないとなと思っています。(この発言で気を悪くされた方がいましたらごめんなさい・・・)そして理解するためにはやはり関わり合わないといけないので、苦手だから避けるということはないようにしたいですね。

そんなこんなで明後日もコンビニ頑張ろうっと!今日はこれから大学にこもって課題しなきゃ!

(写真:コンビニの写真はないので、昨年スウェーデンに留学していたときの、学校の写真)



実感からうまれる理解 [living in Japan 2010]

知り合いに日本語の上手なスウェーデン人(学生、Aさん)がいて、よく日本語とスウェーデン語混じりでおしゃべりしています。先日もお茶をしながら話していたら、「私がスウェーデンを好きな理由」と「Aさんが日本を好きな理由」の話になりました。
(実は私もAさんも高校時代に互いの国に留学し、そこがすごく気にいって、大学時代にまた留学した/しているという共通点があります!)

おもしろかったのが、上記の質問に対する答えが
私 「公的な再教育のシステムが整っているところ。みんなあくせく勉強したり、働いたしていない雰囲気が好き」
Aさん 「若い人でも一生懸命勉強して、自分の将来について考えるところ。みんなに頑張る気概があるところが好き」
と、ほとんど逆の部分を評価していたところ。つまり私が嫌いな日本の特徴をAさんは好きで、
Aさんの好まないスウェーデンの特徴が私は好きな様子。 

私は日本の学校教育のちょっと軍隊っぽい、一人ひとりの特徴をのばすことができない仕組みや、
勝ち組負け組に分けられるような社会の仕組みが好きではないし、だからスウェーデンが気に入っているのですが、Aさんは以下のことを指摘していました。

「スウェーデンの若者は恵まれた環境を当たり前にとらえ過ぎている」、
そして特に学校教育に関して
「学費が無料で、大学でも就学ローン(このお金で大体みな生活費をまかなう)を受けることができる素晴らしいシステムがあるのに、それを使って一生懸命勉強しよう、将来の役に立てようと考えている若者が少ない。」
「多くの若者が就学ローンをもらえる期間を、ただ自分の興味のあるだけの勉強をすることに費やし、卒業してからの職業に生かそうとしていない。」
(将来や仕事について積極的に頑張ろうとしないのは、無職でも国から補助金をもらって生活できるからです。)

たしかに私の知っているスウェーデン人の若者も、学校に行かず仕事もせずブラブラ(補助金をもらって生活)している人がたくさんいます。もちろん人にもよりますが、仕事や将来に対する考え方は日本人の若本と比べると、スウェーデン人の若者のそれはかなり楽観的です。
(スウェーデンのFolkhögskolaに通ったことのある方は、かなり実感されていると思います。)
Aさんのように若いうちから「恵まれた環境の中で懸命にやる」という気概をもった人は稀だと思います。

実際、
私 「そう言われたらそうだね・・・。Aさんみたいに考えている若い人って少ないと思うんだけど、どう?」と、Aさんにもきいてみたところ、
Aさん「たしかに、そう。自分も周りのスウェーデン人の友だちにこんな話をするけれど、あまり「分かってもらえない。やっぱりこういうことは、自国や自分の社会とは異なる国や社会に住んでみて、実感してみないと分からないと思う。」と言っていました。

Aさん、いいこと言うな~。
まさにその通りだ!とハッとさせられました。

百聞は一見に如かず、と言いますが、自分で経験して実感してみないと気がつかないことはたくさんあると思います。特に自国や、自文化、自社会の特徴に関する客観的な視点を得るには、そうした経験がとても大事です。

私自身の体験について考えてみても、高校生の時、スウェーデンに留学をして気がついた日本の特徴がたくさんあります。先述した「日本の教育制度のこういうところが好きではない」という自分の気持ちについても、実は留学するまでは意識化していなかった感情でした。
勉強ばかりの毎日、なんとなく縛られている感じの学校生活に
「なんか窮屈だな・・」という気持ちはあったものの、それを日本の教育制度と関連して捉え始めたのも、スウェーデンで異なる教育制度に触れることで、自分の周りにあるものを相対化できたからでした。

またAさんの話を聞いていてハッとしたことについてはもう一つエピソードがあります。、
私は今回(大学時)の留学時に、できるだけ周りのスウェーデン人学生に日本社会の特徴や社会制度について伝えて、「スウェーデンの(特に教育)制度はこんなに恵まれていると私は思うよ。」「何度も挑戦できる、平等な社会だと思うよ。」ということを伝えようとしていました。
でも今考えてみると、日本や他の国に住んだことのない若い彼らにとってはとても抽象的な話だったんだろうなと思ったことです。

私は当時も、そして今でもスウェーデンの同年代の友人と話していてそうした意見を分かってもらなかったり、彼らの楽観的な展望にたいして少しがっかりしてしまうこともあったりしたのですが、
実感してもらいたいと思っていたことがおこがましかったかなと反省しました。

スウェーデン語やスウェーデン社会について学んでいる者として、
これまで習ってきた知識やこれからやりたいと思っていることをどう社会に役立てるかは、いろいろな方法があると思います。それは日本社会とスウェーデン社会、どちらに身を置くかによっても変わってきますし、伝える対象(人や社会)や伝えたいことによっても変わってきます。
社会における自分の位置についてきちんと認識しながら、貢献していきたいなと思ったのでした。

いろいろ考える&ブレイクスルーのきっかけをくれたAさん、ありがとう!(またフィーカしようね。)
ちなみにAさんとは「日本とスウェーデンを足して2で割った社会があったらいいね。」という話になりました。あるかな~。2つの社会が互いに真ん中を目指したらいいのかな。

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